プロフィール

私たちの合唱団は、昭和38年に創立し半世紀も経ちました。設立当初は奈良カトリック幼稚園をお借りして、「セシリア」も神父様に命名して頂きました。現在は奈良生涯学習センターに練習会場を移して活動しています。
我が団の特徴は、指揮者が団員であることで、ミサ曲や合唱組曲のみならず、30年程前からミュージカルを合唱に編曲して楽しんでいることです。
最近は、歌詞の意味を理解して如何に表現するかがテーマとなり、その技術を習得するのには発声の基礎を身につけるべく、最初の1時間ほどは発声練習に当てています。
各種音楽祭の発表に向けて、アットホームな雰囲気の中で、まだまだ若いつもりの老若男女が練習に励んでいます。

奈良セシリア混声合唱団
会 長  小山田 雄


セシリアの歴史

セシリア誕生の秘話

1963年(昭和38年)の春、一人の男性が奈良カトリック教会を訪れた。当時当教会では合唱団が休会中との事で、団員を募集することとなり、彼の高校の合唱部OBに集合を掛けた。→ 出来治子(旧姓岩田)氏・東祥郎・田中利典・大原康弘・小林和子・久保史江(吉田)吉川光代(中田)上田加津子(山崎勝子)紺木久彌)又当時の彼の職場友人である坂本直彦氏も参加し、教会のシスタ-・教会の人達を合わせて15名で混声合唱団の発足となった。 初代会長はその本人、鳥井伸生氏となった。

当時はシスタ-指導による教会の音楽と高校時代の合唱譜を持込んで歌っていた。(アヴェマリア・村の教会・母さんの歌等)
8月にウィックス神父様が教会に赴任され、早速入会して頂いた。
ウィックス神父様は我々をカトリック教会の一員として迎えてくださり、今日まで教会の皆様と共に歩んでこられる様にご尽力して頂いた方である。(その後、ヒル神父・ウォルシュ神父様が共にセシリアに入って下さったのもウィックス神父様の貢献である。)

9月に我が合唱団に名前を付けることになった。候補として
・バレステ
・ヴィオラセレステ(天使の声)
・群鹿の会
・チェチュリア(CECILIA)
が挙がり、ウィックス神父の提案されたチェチュリアに決定。チェチュリアとは音楽の女神ミュ-ズが持っている竪琴である。これが発音しにくいので、「セシリア」と呼ぶことになる。

この頃、当団の合唱に欠かせない指導者が入会された。中谷四郎氏である。当時から約10年間の永きに亘り合唱指導をして頂き、第1回・第2回の演奏会では、古典合唱曲の指揮をして頂いたのである。このご指導により我らの未熟な可愛い声を大人の声に大きく変えて頂いたのは感謝に耐えない。
1964年(昭和39年)にポツンと入会した男性がいる。表の掲示板の団員募集を見るなり来られたようで、最初は一風変わった関東人であった。この人こそが皆さんよく知っておられる、今は亡き会長の伊東太作氏である。彼は、昭和41年から昭和48年と平成元年から平成7年に亡くなるまで会長を勤められ、セシリアへの貢献は、大きいものがある。

他団体との交流と奈良県合唱祭への参加

1964年(昭和39年)には他の団体との交流も始まり、11月には大阪中央公会堂での第1回交歓合唱音楽会に参加。セシリアとしては始めての舞台出演だった。当時の参加団体はミュ-ズ混声合唱団・関西大学工学部男声合唱団コール・テクニカ他4団体で、この交歓音楽会は1966年(昭和41年)まで3回行われた。

1966年(昭和41年)第3回交歓合唱音楽会の時に歌った「法隆寺の秋」は第5回奈良県合唱祭・第1回演奏会・45周年演奏会でも歌い、セシリアにとっては忘れられない歌の一つとなった。
また、6月には奈良県合唱祭に初出演した。その後、今まで44回出演し、セシリア活動の軸となっている。

初めての単独演奏会

1968年(昭和43年)10月20日、セシリア発足5年の記念演奏会として、その年に開館した奈良県文化会館・大ホールで ほぼ満席のお客様の前に 男性17名、女性25名の42名が大舞台に立ちました。曲目は 法隆寺の秋・組曲月光とピエロ・マドリガル・ロシア民謡とオ-ソドックスな曲であった。当時、初めての単独演奏会の完成に皆んな最高の満足感にひたっていた。

初めての単独演奏会

また、この時期はカトリック教会のヒル神父、ウォルシュ神父様が特に熱心に指導及びアシストして頂き、病院慰問、ハイキング、スケ-ト、スキー、修道院見学等,色々な活動をおこないました。
その中でも、奈良少年刑務所の慰問は丸坊頭の受刑者の前で歌つたこと、心ビクビクで、「出てきたら歌いに来てください」と、ヨイショして、笑われた事が記憶に残っています。
平城宮跡での紅白に分かれての運動会、チーム対抗のバレーボール大会、ハイキングやキャンプ、バーベキューなど、皆んな20代で若さにあふれ、アウトドアースポーツも楽しみました。
また、合唱以外の文化活動としては、それぞれの思いを文章にしたためた手作りの文集「セシリアの広場」があります。教会の一室を借りて、暇を見つけては集まり、ガリガリと「ガリ切り」し、ローラーのインクで真っ黒になりながらの「ガリ版印刷」も青春の楽しい1ページです。1965年(昭和40年)に創刊号を発行し、第7号まで続きました。

団員同士のカップルも

このように活動している間に、団員も年頃を向え、一緒に活動する中で恋が芽生え、結婚したカップルも三組誕生しました。「アヴェマリア」を結婚式やイベントの後で皆んなで歌って盛り上がりました。

「聞いてほしいこの若さを」

セシリアの合唱感の変わり目と感じるきっかけに1970年(昭和45年)岩野努氏の入会があります。岩野氏は“合唱は歌う側が楽しく歌い聞いて頂くのではなく、歌う側・聞く側共に楽しめる一体感が必要である。”との考えでセシリアに旋風を巻き起こしました。
1971年X‘masミニミニコンサ-トでは奈良市西部公民館で出演者(フォークグループ、ハワイアン、軽音クラブ、ギタークラブと我々合唱団)が円陣を組み、笑福亭福笑さんの司会で出演者がその場で入れ替わり、お互いに聴き合う交流会を開催し好評でした。

ステージ狭しと踊った第2回演奏会

前半は今までの合唱曲のステ-ジを、後半はポップス曲を合唱曲に編曲し、マイクやバンドの導入、裏方のプロの応援によるスクリーン照明・振付師の指導を受けた踊りも採り入れて43名が20代前半のパワーをぶつけました。
しかし、吊りマイクが床の足音をひろったり、恥ずかしげなダンスが目立ってしまって、TVの「スタジオ101」のようには行きませんでした。
この大きな変わり目がその後3回・4回演奏会、そしてミュ-ジカルへと続き、セシリアの今日の個性になっていったと思われます。

Let‘s Sing Out第3回演奏会

500円のチケットを1662枚発売、軍資金110万円集めて、1stは反響版と山台のオーソドックスな舞台、2stは反響版を片付けて楽器やマイクを使い舞台照明や振付に凝り、金と時間をかけて楽しい舞台を創りました。 
「みんなで歌おう」とのタイトルのごとく、模造紙に大きな文字で歌詞を書き、聴衆も舞台の上の我々も一緒に楽しめるように企画しました。
前回の反省を踏まえ、集音スタンドマイクを囲んで歌うようにグループ分けし、緞帳の前で歌唱指導している幕間に次の舞台準備を整え、聴衆と一緒に「翼をください」を繰り返し歌っている途中で、歌舞伎でお馴染みの吊り幕をハラハラと落とし、一瞬にして2ステージへ切り替えたのが衝撃的でした。(和紙で作った吊り紐が巧く切れるかどうかハラハラドキドキでした。)

コンクールや芸術祭にも出演

1979年(昭和51年)~1980年(昭和55年)には、指揮者も平山正信氏に代わり、県の合唱祭だけでなく腕試しに「関西合唱コンクール」「奈良県音楽芸術祭」にも出演。講評者のコメントに一喜一憂しました。

これまでの集大成だった第4回演奏会

1st.混声合唱組曲『太海にて』三本指揮者のもと、多田武彦氏のロマンチシズムに挑戦しました。
2st.『ポピュラー・アラカルト』と称して、(アメリカン・フィーリングやマイウエイ、イエスタディ、コンドルは飛んで行く)を平山指揮者のもと、紺木夫人に染めてもらったパートごとに色分けした綿シャツを着て、舞台狭しと踊りました。踊りは不慣れな団員ばかりだったので、学校の体育館を借りて、振付の先生の指導も仰ぎました。
3st.『シャンソン・メドレー』素晴らしい舞台でした。みんなで衣装を工夫し、パリの下町の情景を演出しました。ベースやドラムだけでなく、岩野さんのアコーデオンも華を添えていました。三本指揮者は画家に扮して舞台袖で指揮、演技力抜群のブーちゃんこと大西くんの風船売り、フランス人形のような農婦、パリのお巡りさんもきまっていました。曲と曲の間にはMCのストーリー説明が入り、歌で「出会いと別れ」といったロマンスを表現しました。
4st.『ロシアのうた』では、オーソドックスな服に着替えて、ロシアの愛・平和・故郷を親しみやすく、美しいハーモニーで平山指揮者のタクトに合わせて歌いました。
ここでも、舞台の裏方さんには大変お世話になりました。特に文化会館の窓口である中村欣也さんには無茶なお願いをして、反響版の上げ下ろしに協力して頂きました。
この演奏会は、セシリアの方向性に大きなインパクトを与え、ミュージカルへの方向性を決めた音楽会だったように思います。

解団の危機

昭和56年から昭和62年には素晴らしい舞台に向けて、と思いきや・・セシリアにとって大変苦しい時期でした。第4回演奏会が大成功だっただけにその経験に満足し、団員が減り続け、練習日には5~6人となり、いよいよ解散か! セシリアを創った紺木さんと英ちゃん(高石さん)が、前会長の伊東太作氏と東祥郎氏に相談するため居酒屋で会ったところ、「お前らに潰す権利はない!」と、大剣幕。伊東さんが「東。団員でないお前が言うことで無い」とたしなめたところ、「ほんなら、セシリアに帰ったらエエンやろ・・」と言うことで復帰されました。また、これまで休会員だった人も、仕事や子育てに余裕ができ、復帰する人が増えてきました。何とか団員も15人ぐらいに定着し、やっと活気が戻ってきました。伊東さん、東さん、それにはアルコ-ルと言う妙薬がなかったら、二人の復帰はなかったでしょう。

懐かしい連中との再会・セシリア創立25周年パーティコンサート

1988年(昭和63年)復帰した東さんが頑張って団員を引っ張り、懐かしい旧会員や友人、知人、家族…200人ほどの参加者が集まり楽しい時間を過ごしました。
ただ、立食パーティで料理も少なく、歌の練習ももう一つで申し訳なかったと思いますが、久しぶりに沢山の人と、楽しい時間を持つことができました。

感動の30周年記念演奏会

ミュージカルへの取り組み:三本氏のアメリカ出張(ブロードウェイ)や伊東夫妻のミュージカル本場のロンドンでのみやげ話を聞き、刺激を受けて、皆んなで何度か劇団四季や他の劇団のミュージカルを鑑賞に出掛けました。
平成4年の第5回演奏会は「山に祈る」「キャッツ」をならまちセンタ-・ホールで。これは、自分たちで言うのも少々恥ずかしいのですが、本当に素晴らしい舞台でした。
2つのステージとも、来場者に感動を与え、賞賛の声を頂きました。ナレーションで大いに涙腺を刺激された高岸さん、メス猫に扮した奈良女子大ダンシングチームと指導役の太田先生の協力も忘れられません。
キャッツのTシャツは、本場ロンドンから取り寄せて着用するほどの熱の入れようでした。
特に、皆んなで手作りした舞台の大道具、小道具が印象的です。紺木家で、休日には集まって、大きな「張りぼての猫」や発泡スチロールで作った「汽車」、ベニヤ板を切り貼りした「街のシルエット」、大きなタイヤ積み上げた「廃墟」。この大道具の運搬には、安田さんのトラックが大活躍しました。
そうそう!もうひとつ自慢させてもらうと、拍手を催促する演奏会が多い中で、この時はエンディングの歌が終わらないうちから大きな拍手をもらったこと。本当に感動し、後は例のごとく・・・二次会、三次会で夜遅くまで盛り上がりました。

アットホームな雰囲気でのサークル活動

30周年演奏会以降は、皆んなで旅行に行く機会が多く、淡路島、富士箱根、信州清里、城之崎温泉・・・と、伊東・三本氏の障害者手帳の高速半額のメリットを利用して、遠くまでドライブ旅行に出掛けました。これは、歌を離れ親睦として、楽しい想い出です。
コーラス活動としては、春の教会での復活祭・聖歌隊応援、6月の奈良県合唱祭、12月の教会でのクリスマス聖歌隊応援、東大寺の(ミュージカル良弁杉)、平城宮跡での奈良遷都祭ぐらいで静かに推移していましたが、いよいよ45周年の演奏会の話が出だしました。

やり遂げた45周年記念演奏会

レ・ミゼラブルは、もう30年以上も指揮者である三本氏が、アメリカで感動し、是非セシリアで発表したいと温めていたもので、従来とは違って、すべての団員がソロを経験することで、聴衆に歌心を伝える楽しさを味わうことでした。
ただ、この時期の大きな問題は、団員の平均年令が60歳前後という大きな曲がり角に差しかかっていて、体力、知力とも今までとは違って身体がついて来ないという悩みでした。
やれば出来る!まだまだ若い!今回もバンドの皆さん、元気なダンサー、舞台照明などの裏方さんの援助もあって楽しい演奏会でした。それまでの苦しみを忘れて、例のごとく旨いお酒を頂きました。

半世紀のパワーを50周年記念パーティーに

平成26年9月20日 12時~ 奈良ホテルに於いて「創立50周年記念パーティー」を開催しました。わざわざこの祝宴に駆けつけて頂く来場者にどのように「おもてなし」をすればいいのか? 皆んなで知恵を出し合い、また、下記のように新しいことにチャレンジしました。
同窓会形式ではなく、ホテルのディナーパーティーにように 皆さんに「ミュージックフェアー」を楽しんでいただく。(バンドの助っ人も頂いて)
指揮者も含めて、全員がソリストになり、歌心を持って相手に伝えることにチャレンジ。(当然、すべて暗譜で言葉の意味を理解して)
この際、50年間の活動記録をまとめ上げる。(団員名簿・写真・録音・ビデオ)
この活動記録を共有しセシリアの紹介も出来るように、ホームページも立上げました。
当日は、北は北海道・南は宮崎からもOBが50名、家族・友人の方が30名、出演者が19名と99名の大祝宴会となり大盛況に終わりました。
さて、これからもセシリアは、50周年ロゴとしてデザインした年輪のように、皆様からのエネルギーをもらって、成長していきたいと思います。